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情報と知識(7) [序叙]

 本書は多くの資料に依存しているが、不思議なことに、入手が困難だったのは、ここ数年の資料なのである。古い時代の文献や資料をたいせつに思うのは、人の心理として理解できないわけではない。だからといって直近のものを軽々に扱っていいというものでもない。
 例えば、それなりに歴史を持つソフト会社ですら、社内報や事業計画書などをきちんと保存しているのは少数といっていい。従業員が増え、開発用の機器があふれ、そのたびに移転し、あるいは事務所を統合しているうち、「まず、要るまい」と廃棄してしまう。
 インターネットのWebサイトに掲示していた情報などは、もっとひどい。「消しちゃった」というのである。
 メモリの集積度が高まり、高度情報化社会が謳われているにもかかわらず、記録の集積と保存の能力は、はるかに低い水準にある。情報があまりにも多いために拡散し、かつデジタルであるがために容易に破棄されてしまう。
 つい30年前まで、書籍は筆写という行為によって知識として蓄積され、保存されていた。江戸末期に西洋から多くの知識がもたらされ、多くの啓蒙家を生み出したのは、彼らが「蕃書」を翻訳し、筆記する中でその原理を理解した。1950年代以後におけるコンピュータの国産化やソフト産業の勃興でも、同じことがあった。
 筆者が学生だったころ、複写機というものがいまほど簡易に、安い料金で利用できればどんなに助かっただろう。当時は感光紙を特殊な液体に浸して乾燥させる湿乾式複写(いわゆる青焼き)か、ヤスリ板の上で蝋引きの原紙を鉄筆でガリガリと刻む謄写版しかなかった。
 活字は高級品だった。
 筆記することで目と指と脳が同時に動いた結果、知識は確実に記憶され、その理屈までが理解された。
 現代はいかにもせわしない。現代の世界が19世紀末の5倍のせわしなさであるとして、さらにITの分野は、通常の社会生活の7~9倍の速さで動いているという。いわゆる「ドッグイヤー」といわれるもので、となればIT業界の1年は、当時の35~40年にも相当する。
 『書紀』の年紀を西暦に換算すると、神武即位は紀元前660年にさかのぼる。神武即位前に、神代十四世があったとされる。現代並に1世代を30年としても、『書紀』や『古事記』がいう“かみよのかみ”はたかだか500年に足りない。
 とすれば、パンチカード式計算機械装置が史上に登場した1884年からENIAC完成までの約60年は、人の歩行と牛馬・風水の力に頼っていた時代の“かみよのかみ”をはるかに上回るではないか。

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